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東京高等裁判所 昭和42年(ネ)1701号 判決 1968年3月30日

控訴人(被告)

内田一二

代理人

吉永多賀誠

被控訴人(原告)

島田フキ

代理人

上村恵史

外二名

主文

原判決中控訴人敗訴の部分を取消す。

右の部分につき被控訴人の請求を棄却する。

訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は主文と同旨の判決を求め、被控訴代理人は控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の事実上ならびに法律上の陳述および証拠の関係<省略>

理由

一原判決事実摘示中の請求原因一および二の事実ならびに前件訴訟における主たる争点が同四のなかに記載さているとおりであつたこと、はいずれも当事者間に争がない。

二ところで、不当に訴を提起されてやむをえず弁護士に委任して応訴した被告は、その訴が不法行為の要件を具備しているときは弁護士に支払つた相当額の報酬につき民法の不法行為の規定に従つてその賠償を請求することができるが、訴が不法行為の要件を具備しているというためには、それが目的その他諸般の事情からみて著しく反社会的、反倫理的なものと評価され、公の秩序善良の風俗に反していると認められる場合、すなわち訴がそれ自体として違法性を帯びている場合でなければならないと解すべきである。単に訴訟の結果訴訟物たる権利がなかつたのに、これあるものとして訴を提起したというだけで、この要件を具備したというには十分でなく、権利がないことを知りながら被告を害するため、又はその他紛争の解決以外の目的のため、あえて訴の手段に出たという場合か、権利の存否について深く調査もせず、訴訟という手段に出る際の原告の態度としては誰が見ても軽率に過ぎ、世間の常識上著しく非難されるに値する程の重大な過失によつて権利のないことを知らずに訴を提起したというような場合でなければならない。訴訟は一定の権利ないしは法律関係の存否に関して紛争が生じた際に、これを解決する手段として設けられた公の制度であるから、そこに真の紛争と見うるものがある限り、たとえ訴訟の結果は原告の敗訴に帰したとしても、ただちにこれを責むべき理由ありとはいえないのである。

そこで、控訴人の提起した前件訴訟についてこれをみると、被控訴人はまず、控訴人が吉野治三郎から被控訴人への前件訴訟における係争地(以下本件土地という)の賃貸人の地位の承継につき合意の成立がなかつたこと、したがつてまた控訴人はその賃借権を被控訴人に対抗しえないこと、を知りながら前件訴訟を提起したというが、控訴人が前件訴訟を提起するについて右の点を知つていたことについてはこれを認めるに足る何らの証拠もない。

そして控訴人が前件訴訟を提起するに至つた経緯をみると<証拠>を綜合して考えると、次の各事実が認められる。

1  控訴人は昭和三年六月頃吉野治三郎から本件土地を建物所有の目的で賃借し、そこに階下二六坪余、二階二二坪余の住宅を建てて居住し、隣地に病院を建てて医院を経営していたが、右住宅は昭和二〇年四月強制疎開のため除却され、また右土地は同年九月米国進駐軍のため接収され、昭和三〇年九月接収解除となつたこと、2 被控訴人が右土地を買受けた昭和一九年二月頃、治三郎の父の吉野安五郎は同人と同年輩の男を伴つて控訴人方を訪れ、「今度この人に土地を譲渡したから、今後はこの人に地代を支払つて貰いたい」という趣旨の申入をしたので、控訴人は、その男が被控訴人の夫であるか又はその代理の者で、被控訴人は土地賃貸人としての地位の承継についても異議なくこれを諒承し、引続いて控訴人に賃貸してくれるものと信じて何らの疑いももたず、またその後被控訴人から土地の明渡を求められたこともなかつたこと、3 控訴人はこれよりさきの昭和一八年頃空襲の激化に伴い藤沢市鵠沼に居を移して病院に通い、本件土地の地代は治三郎所有の当時は毎月治三郎が控訴人方の病院に取立てに赴いていたので、控訴人は病院の事務の者に支払をさせており、被控訴人の所有となつた後も右のような申入れのあつた経緯よりして同じようにして地代の支払がされているものと信じていたこと、4 被控訴人は本件土地の買受およびその後の管理については夫の幸次郎および差配の鈴木某に一任していたが、右買受に際しては被控訴人も幸次郎も控訴人が本件土地を治三郎から賃借し住宅を建てて使用していることを熟知しており、治三郎から右賃貸借の契約書の引継もうけたこと、5 控訴人は接収が解除され次第本件土地に建物を建て医院の経営を続けたいと計画し、昭和二三年九月には内容証明郵便で被控訴人に対し本件土地を引続いて賃借すべき旨の申入をしておいたが、被控訴人が昭和二七年頃本件土地を他に譲渡し又は他人に賃貸しようとしたことから、控訴人との間に賃借権の存否について紛争を生ずるに至つたこと、6 前件訴訟の第一審においては前記争点について控訴人の主張事実が認められて賃借権確認の請求が認容され、これを本案とする仮処分異議事件(横浜地方裁判所昭和二八年(モ)第九〇七号、東京高等裁判所昭和二九年(ネ)第一八七二号)も第一、二審とも同一の争点につき控訴人の主張事実が認められて控訴人が勝訴していること。

<証拠>中右認定に反する部分は採用しない。

被控訴人は、控訴人が被控訴人に対し本件土地の地代の支払をしたことがなく、またその領収証もなくして賃借権ありと信ずるわけがないと主張するが、<証拠>によると、控訴人の言い分としては、「被控訴人が本件土地を買受けた後は、右買受の頃安五郎と同道して新地主と称して来訪した前記の男が地代を取りに来たので、同人に支払つた、領収書も受取つたがその後病院が戦災に遭つたときに焼失した」というのであつて、この供述を虚偽と断定すべき資料は何もなく、また仮りに控訴人が被控訴人に対する地代の支払をした事実がなかつたとしても、この地代は被控訴人が本件土地を買受けた昭和一九年二月から、本件土地の上に在つた控訴人所有の建物が強制疎開によつて除却された昭和二〇年四月までの極めて短期間のもので、控訴人はその間は前記認定のように病院の事務員が被控訴人に対して地代の支払をしていると信じていたのであつて、当時は戦争の激化に伴つて日常生活がきわめて混乱していた時であることを考え併せると、控訴人がそのように誤信したことを深くとがめることはできない。

被控訴人は更に、控訴人は本件地上の建物には登記がないことを知つていたから、その借地権を被控訴人に対抗しえないことを知らなかつたことにつき過失がある、というが、右建物にはその登記がなかつたからこそ前件訴訟において賃貸人の地位の承継についての合意の成否が問題となつたわけであつて、控訴人が右訴訟において登記ある地上建物の存在による借地権の対抗力を主張したのでないことは、被控訴人の主張自体からして明かなところであるから、この点は前件訴訟提起の当否を判断するについて全く関係のない事項である。

控訴人が前件訴訟を提起するに至つた経緯が以上のとおりであるとすれば、この訴の提起については相応の理由があつたというべきで、これを目して前記のような趣旨において違法と断定すべき何らの事由をも見出すことができないのである。したがつて右訴の提起は不法行為に該当しないものといわなければならない。

三よつて被控訴人の本訴請求は失当であるから、原判決中被控訴人勝訴の部分を取消し、右請求を棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法第九六条、第八九条を適用して主文のとおり判決する。(小川善吉 松永信和 川口冨男)

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